2010年08月11日

ハマコー 背任

ハマコー銘柄は、
AMI ハドソン YAMATOなどだが、
今回の事件は、東証一部銘柄だそうだ。浜田幸一元衆院議員を逮捕=背任容疑で−千葉県警

 千葉県警は10日、背任容疑で、元自民党衆院議員の浜田幸一容疑者(81)を逮捕した。
 捜査関係者によると、浜田容疑者は借金をしており、担保株の流用などの不正をした疑いがあるという。

 浜田容疑者は千葉県議などを経て、1969年に旧千葉県3区から衆院選に出馬し、初当選した。
 自民党副幹事長や同党広報委員長などを歴任し、当選7回。国会の名物男として「ハマコー」の愛称で知られた。

 一方で、不規則発言などが目立ったほか、80年には米ラスベガスのカジノで多額の金を賭けた賭博が発覚し、議員辞職に追い込まれた。93年に長男の靖一氏に地盤を譲り、政界を引退した。
 引退後も高額納税者の長者番付に名を連ね、評論家として番組出演するなどしていた。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010081000536

参考:浜田幸一ツイッター
http://twitter.com/555hamako/status/20288556146

2CH
http://newsde2tanhanrou.seesaa.net/article/159051399.html

株の銘柄は東証1部上場の情報通信会社で、売却益は2億2000万円とみられる。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/60183463.html

浜田 幸一(はまだ こういち、1928年(昭和3年)9月5日 - )とは、日本の元政治家であり、タレントである。株式会社ヤマト名誉顧問[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%80
1928年(昭和3年)、千葉県富津市出身。父は青堀町の大地主の家に生まれ育ち、町の助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、バクチにのめりこみ、一家の財を失ってしまった。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという。[2]

1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として木更津航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた。[3]

中学3年のときに茨城県土浦の海軍航空隊に赴き海軍予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している。[4]

1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の木更津航空廠で玉音放送を聞くこととなった。ちょうどこの頃に兄が戦病死。[5]

それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った。[6]

青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う[7]。
政治活動

富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙で千葉3区より自由民主党から初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回。

1973年には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らと共に民族主義右派の青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。

1993年7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り政界を引退した。当選7回を数えたが、閣僚への就任は無かった。
posted by k at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/159106175
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。